聖書通読のすすめ
「私たちクリスチャンはなぜ聖書通読をするのでしょうか?」
クリスチャンであれば、このような疑問を一度は感じたことがあるのではないでしょうか?救われて間もない頃の私は、ディボーションの仕方を学びましたが、聖書通読に関しては「聖書をいつか1度は通読してみたい!」という程度の願いしか持っていませんでした。
ある有名な日本人の伝道者は、毎朝4時に起床後、聖書を毎日23章読み、年7回通読するという習慣を保っているそうです。とってもすばらしいことです。ただ、このように毎日20章以上を聖書通読に費やすという習慣は、ほとんどの人にはないものでしょう。
もしかすると、毎日のディボーション(QT/聖書研究)の習慣を身につけているクリスチャンの中でも、聖書通読を習慣としている方は決して多くはないかもしれません。
では、クリスチャンの成長のために霊的習慣として重要視される「聖書通読」と「ディボーション」には、どのような違いがあるのでしょうか?ここでは霊的成長における両者の関係性に触れつつ、最後に聖書通読が私たちにもたらす霊的メリットについて考えてみましょう。
1.聖書通読とディボーション
「聖書通読」は、一般的に毎日3章以上のペースで聖書66巻(創世記〜ヨハネの黙示録)を、神の計画という壮大な物語の流れを意識し、読み進めていきます。「聖書通読」の特徴は、1回の閲読範囲が比較的長いため、文脈の流れを把握しやすい点にあります。
旧約聖書における【人の創造】【罪の起源】【神の契約】【イスラエル民族】などに関する正しい理解は、新約聖書の理解の確固たる土台となります。
一方、「ディボーション」というのは、賛美、みことば、祈りなどの、神との交わりの1つの方法です。みことばの部分では、聖書のある書の一段落(10節前後)、短ければ1-2節の聖句をじっくりと黙想し、そこにある神のみこころを探っていきます。
その特徴は、閲読範囲が比較的短いため、そこから神のみこころを丁寧に深く黙想でき、教えられたことを実生活に適用しやすいことにあります。
キリスト教月刊誌の「ディボーション」に関する記事で、ある牧師が「私はディボーションなしに成長できる他の方法を知りません!」と寄稿していました※1。「ディボーション」というのは、まさに私たちの霊的成長を助けるクリスチャンライフの鍵と言えるでしょう。
2.聖書通読の欠けたディボーション生活の落とし穴
聖書通読とディボーションとの違いは、樹木のスケッチにたとえることができます。
遠くから1本の樹木を眺めて、大枝や木の全体像をスケッチするのを「聖書通読」だとすれば、
近くで小枝に連なる数枚の葉を詳細に観察し、スケッチするのが「ディボーション」だと言えます。
もし私たちが「聖書通読」によって神の計画の全体やテーマを正しく理解することなく、ただ「ディボーション」のみを行っていくとしたなら、どのようなクリスチャン生活となると思いますか? 実は、そこにはある落とし穴が潜んでいます。
16世紀の宗教改革の立役者マルティン・ルターは「聖書が聖書自体の解釈者である」と聖書解釈の原則を述べています。つまり、聖書は神の霊感により統一性をもって書かれた書物であるため、たとえば旧約聖書のある聖句における意味は、必ず新約聖書の他の聖句によってもサポートされ、解釈することが可能であるということです。
もし私たちが聖書全体を貫く神の計画(契約)を正しく理解できなければ、私たちは自然と自分自身の経験や感覚、世の考えに影響されてしまい、往々にして神のことばに対して私的解釈(自分勝手な解釈)を施してしまいます。
その結果、たとえば神の恵みと真理(いつくしみと厳しさ…)と言った「神の愛のご性質の多面性」を適切に整合できず、主観的な感情を優先させた浮き沈みの激しい「ジェットコースター的なクリスチャン生活」に陥ることも少なくありません。
日本でもここ数年、異端の働きも増加しています。特に、彼らはインターネットやSNSを駆使して、24時間、羊を惑わし、教会が分裂するケースも決して珍しくはありません。
異端の教えの問題点は、聖書66巻全体から導き出される教え(教理)を無視し、聖書の一部の聖句だけ取り出し、偽りの教え(教理)を作り出すことにあります。
それらは「三位一体」や「救い」といった福音の重要教理の核心に挑んでくる有害な教えです。ですから私たちクリスチャンは、生涯を通して異端の教えにも惑わされないよう整えられる必要があると同時に、周りの信仰者を異端の働きから守っていくことが大切です。
そのためにも「聖書通読」による聖書全体の文脈理解と「ディボーション」による日常生活での聖書の教えの実践は、クリスチャンの信仰生活において極めて重要であると言えるでしょう。「樹木全体」と「葉」の両方のスケッチを実践しましょう。
3.使徒パウロの模範
聖書通読とディボーションの重要性は、新約聖書の使徒パウロの教えと歩みからも知ることができます。
①使徒パウロと聖書通読
たとえば、ルカの記した「使徒の働き」の後半には、パウロの宣教旅行の詳細が記録されています。彼はエペソの町では約3年間を費やし、エペソ教会に「神のご計画の全体」を教えました。彼がエペソ教会の長老たちに最後に送った告別メッセージの中にこのようにあります。
「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」※2
使徒パウロは宣教旅行の際、エペソ教会の長老たちに対してだけではなく、築き上げたすべての教会で「神の計画の全体」を教えるよう努めました。このことは、新約聖書の彼の他の書簡からも見て取れます。
なぜなら、彼がそれらの町を去った後、異端の働き人が必ず現れ、教会を混乱に陥れることを誰よりも危惧していたからです。上記の使徒20:27に続く箇所(使徒20:29-31)にて、彼は以下のような警告を与えています。
「私は知っています。私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回ります。また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。」※3
パウロは、彼が書いた教会宛の手紙の中でも、悪い働き人や異端の教えに対して警告を発しました※4。彼は神の羊が必ず出現する偽りの教えから守られ、健全な信仰生活を歩めるよう願っていたのです。
聖書通読は、クリスチャンが生涯をかけて福音に基づく聖書的教えを包括的に理解し、自分勝手な私的解釈や異端による偽りの教えの道に迷い込まないための道しるべとなるでしょう。
② 使徒パウロとディボーション
では、使徒パウロはどのように「ディボーション」を生活と宣教の働きの中で実践していたのでしょうか?
彼は自分自身を神にささげ、神に喜ばれる生き方の模範を示しました。そして、神の教会をキリストにある成熟した大人(エペソ3:11-16)へと導いたのです。
「最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。」※5
テサロニケ教会のクリスチャンは、使徒パウロたちの模範と教えを通して神に喜ばれる歩みを実践しました。それは、彼ら自身が周辺の地域のすべての信者の模範となった(1テサロニケ1:7)と、パウロが彼らを称賛するほどでした。
つまり、パウロは聖書全体の福音理解を土台とし、日々の祈りの中で神のみことばを黙想し、信仰によって実生活に適用していたのでした。聖霊もまたパウロの歩みの中に、キリストの力を豊かに現してくださいました。
もしパウロが聖書全体に関する知的理解をどれほど深めたとしても、日々のディボーションの中で生ける神と人格的に交わり、教えられた真理を日常生活の中で歩めなければ、人々を効果的にキリストに導き、育成することはなかったと思われます。
しかし、パウロは聖書全体の文脈理解に基づいて、一つひとつのみことばを、聖霊の助けによって実践し、生きたのでした。ここに私たちが模範とすべきディボーションライフがあります。
4.聖書通読のすすめ
実際、神さまは私たちのキリストにある人格形成のプロセスに、さまざまな方法(祈り、交わり、専門的な神学教育、仕事、家庭、試練、困難…)を用いられます。
これらは、神さまによる私たち一人ひとりへの霊的成長に対する「オーダーメイド」の訓練です。すべての人々が確実に成長へと導かれる法則は存在しません。ただ「聖書通読」と「ディボーション」は、手元に聖書がありさえすれば、だれでも日常生活で取り組むことのできるものです。
① ディボーションが習慣となっていないクリスチャンの方へ
「聖書通読」には時間がかかります。聖書の文脈を体系的に整理し、福音理解を深めるためには一定の年月が必要です。生まれたばかりの赤ちゃんが両親の心を理解するプロセスと同じように…。子は親の愛を受けながら、年月をかけて自らのアイデンティティや使命を発見していくものです。
ですから、もしまだ聖書通読もディボーションも習慣となっていないのなら、まずは「ディボーション」の実践を心よりお勧めします。キリスト教書店でディボーション冊子が購入できますので、ぜひ明日からでも始めてみてください。
② 聖書通読の経験、または習慣がないクリスチャンの方へ
ディボーションがすでに習慣となっているクリスチャンの中で「聖書通読の経験のない方、もしくは聖書通読が習慣となっていない方」はぜひ、これを機会に聖書通読にチャレンジすることをお勧めします。
聖書通読の方法も十人十色ですので、興味のある方は以下のWebサイトなども参考にしてみてください。自分のライフスタイルに合ったペースでの聖書通読が可能です。
次に私が個人的に最もお勧めする聖書通読法を紹介します。それは1冊の書籍を用いて行う通読方法です。その書籍とは『おっ、聖書が読めてくる!』です。
推薦書籍:イ・エシル著 おっ、聖書が読めてくる!〜生長点がはじける聖書通読学校〜 Durano Japan 出版
通常の聖書通読は、創世記から順番に黙示録まで66巻を読み進めていきます。しかし、この読み方は聖書に馴染みのない日本人クリスチャンにとっていくつかの大きな困難があります。それは歴史的、文化的、地理的理解の壁(障害)です。
この書籍の特徴は、これら壁を乗り越えるための各書の明瞭な解説と「だれが王か?」と言った聖書全体の思想を繋ぐメガネによって、旧約から新約までを「時系列」に整理して、通読できるようプランされている点です。
時間に余裕のある方は、1日20章のペースで読むと60日間(2ヶ月)で通読が終わります。心よりお勧めします。
5. おわりに
「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」※6
聖書通読の実践は私たちにとって、ときには義務感、またあるときには苦しみすら感じることもあるかもしれません。しかし、聖書通読が私たちの歩みにおける良き習慣となるなら、結果的に私たちは主の愛の中にとどまることとなり、豊かな実を結ぶ者へと変えられていくことが期待できるでしょう。
キリストも御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となってくださいました。
オリンピック選手は自分の名誉、国の栄誉のために犠牲を惜しまず、日々自分を鍛錬して、人々に感動をもたらし、メダルという栄光を勝ち取ります。
同じように、私たちもイエスの御名と神の栄光のために、喜びをもって自発的に聖書通読やディボーションといった霊的鍛錬を続けましょう。
神への従順を学ぶならば、多くの人々を救いに導き、建て上げ、そしてかの日にはどれだけ栄光に満ちた冠を、主から受けることができるでしょうか?
聖書通読による祝福を心よりお祈りいたします。
[著者紹介]江渕篤史(えぶち あつし)1974年高知県出身。東京学芸大学在学中にキリストを信じる。卒業後、就職。フィットネス・インストラクターを経て、2002年より日本キャンパス・クルセード・フォー・クライストのスタッフとして、大学生に福音を伝える働きに従事。アジアの宣教困難な国で宣教師として、現地学生に仕える。帰国後、2017年より、日本キャンパス・クルセード・フォー・クライストの代表。同じくキャンパス・クルセードのスタッフの妻とともに、二児の父として育児奮闘中。
脚注:(1)『舟の右側』2021年7月号, 地引網出版 (2) 使徒20:27 (3) 使徒20:29-31 (4) 参照聖句:ガラテヤ1:6-9, ピリピ3:2, コロサイ2:16-19, 1テモテ6:20-21, 2テモテ3:13, テトス1:10-11 (5) 1テサロニケ4:1 (6) ヨハネ15:5
推薦書籍:イ・エシル著『おっ?! 聖書が読めてくる!』 Durano Japan, 2007年