イエスの再臨とは何ですか?

【質問】イエスの再臨の話を聞きました。再臨とは何でしょうか?再臨のときに何が起こるのでしょうか?世の終わりと聞くと、少し怖い気持ちもしますが、どういうものでしょうか。

【私たちの回答】 イエスは今から約2000年前に、人となってこの地上に来ました。これをイエスの初臨(しょりん)と呼びます。

この初臨の際、イエスは全人類の罪を背負い、十字架につけれられて死にました。そして死の3日後、死から復活し、40日間、弟子たちに現れます。そして40日後、イエスはエルサレム近郊のオリーブ山から天に昇ります。その光景を見守る弟子たちに、御使いが現れます。そのとき、御使いが語ったメッセージがこれです。

「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見た同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)

再臨とは?

イエスは世の終わりに、再びこの地上に来ます。この出来事をイエスの再臨(さいりん)と伝統的に呼んでいます。再臨は、イエスが天に昇ったときのように、皆が見ている中で起こる出来事です。

「…号令と御使いのかしらの声とラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつもまでも主とともにいることになります。」(1テサロニケ4:16,17)

主の再臨のとき、すでに死んだ神の民が、死からよみがえります。そしてそのときに生きているクリスチャンと一緒に、天に引き上げられ、空中で再臨のイエスと出会うのです。クリスチャンが再臨の際に、栄光のからだ(イエスが復活したときのからだ)でよみがえることを、専門的に栄化(えいか)と呼びます。また、空中に引き上げられることを携挙(けいきょ)と呼びます。

再臨は、クリスチャンが天国に引き上げられ、いつまでも神とともに住むようになる救いの完成の日、喜びの日なのです。

再臨はいつ起こるのか?

イエス・キリストの再臨は、近い将来に起こることとして、多くのクリスチャンは受けとめています。いつ再臨が起こってもおかしくない時代に、私たちは生きているのです。

「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。」(テトス2:13)

ではイエスの再臨は、具体的にいつ起こるのでしょうか。イエスはこう語ります。「ただし、その日、その時がいつになるのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子(イエス自身)も知りません。」(マタイ24:36)

神はだれに対しても、イエスの再臨の日時を明らかにしていません。天の御使いも、イエスご自身もその具体的な日時は知らされていないと語っています。いつなのか、その具体的な日時はわかりませんが、再臨が必ず起こることは確かなことです。

私たちは再臨のそのときまで、今ゆだねられた地上での務めを忠実に果たしていかなければなりません。

再臨を待つとは?

イエスは一つのたとえで、再臨を待ち望む姿勢を話しています。旅行に出かける王が、家来に10ミナの資金を手渡し「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と語ります(ルカ19:13)。

聖書は、キリストの再臨を待ち望むため、日常生活を停止する必要はないと語っています。むしろ今の務めを、忠実に行い続けるように命じています。再臨のとき、天に特別な報酬を用意しているので、この地上での使命を忠実に果たし続けなさいと語っているのです。

忠実さが求められる

1コリント15:58では、パウロはイエスの再臨に向けて、こう勧めています。「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」

1テサロニケ5:8では「ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」

イエスの再臨を待ち望むため、仕事をやめて、ただ礼拝だけをして「見守る」ことは、イエスが意図したことではありません。

むしろ今できることを、全力を尽くして、忠実に行うことです。「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。」(ヨハネ9:4)

今を生きる大切さ

もし弟子たちが、主の再臨が近いからとその役割を放棄して、ただ礼拝だけを行っていたら、どうなっていたことでしょう。「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)というキリストの大宣教命令を無視していたら、どうなっていたことでしょう。福音は、全世界には伝えられてはいませんでした。

使徒はむしろ、今日が「再臨の日」であるかのように、毎日を精一杯生きていました。私たちも今日一日を神からの贈り物として、神の栄光を現すために生きていきましょう。